コラム集(過去掲載分)
2014年08月01日掲載
副市長のコラムを掲載しています(過去掲載分)
副市長2期目が始まりました
2014年4月1日
平成22年4月に第2代富士宮市副市長に就任し、あっという間に4年間が経過しました。
年齢も63歳を過ぎたことから、ぼちぼち次の人生を、と考えていましたが、須藤市長から「引き続き頼むぞ!」と言われ、2月の富士宮市議会において選任の議決をいただき、 4月1日から、第3代副市長として2期目がスタートしました。
時代はどんどん変化しています。
富士山が世界遺産に登録され、市街地のせせらぎ広場隣接地に静岡県世界遺産センターの建設も決まり、いよいよ富士山文化の聖地としての街づくりが始まります。
人生の半分以上を昭和の時代に生きてきた私の経験や感性が、これからの時代にどこまで通用するか不安ですが、職員と力を合わせ、誠心誠意頑張りたいと思います。
富士山世界文化遺産もう一つの感激
2013年7月10日
6月22日午後5時28分、カンボジア・プノンペンで富士山の世界文化遺産登録が正式に決定された瞬間、市庁舎1階ロビーのライブ中継特設会場において、 私は、市長、議長、教育長そして多くの市民の皆さんとともに、猛烈なフラッシュの中で感動と喜びを共有しました。
富士山を取り巻く自治体の中で、市庁舎において大々的なカウントダウンイベントを打ったのは富士宮市だけだったこともあり、多くのテレビ局の中継車が市庁舎の駐車場に集まり、 万歳やクス玉割りなどの様子を一大ニュースとして全国に伝えました。
ローカルテレビ局の速報、民放キー局の6時のニュース、そして、NHKの7時のニュースにおいても、トップニュースとして富士宮市役所の喜びの様子が放映されました。
特に、7時のNHKニュース7のトップで、富士宮市の様子が伝えられたことは、私にとって、まさか、まさかの信じられない出来事で、感激で目頭が熱くなりました。
話は少しさかのぼりますが、今年の春、私は、ある結婚披露宴に出席しました。
その新婦は、NHKニュース7のメインキャスターの女性でした。
NHKニュース7のメインキャスターといえば、才識兼備でなければなれない女子アナウンサーの最高峰。
ウエディングドレスを纏った新婦は、言葉では言い表せない美しさと気品にあふれていました。
私はすっかり見とれて、頼まれていた披露宴最後の三本締めのことを忘れていました。
披露宴も予定の時間となり、「お手を拝借」の前の口上をどうしようかあわてました。
そこでふっと思いつき次のようにアドリブを入れました。
「お二人の末永いお幸せとご両家のご繁栄をお祈りし、さらに、願わくば願わくば、6月にプノンペンで行われるユネスコの会議において、 富士山が世界文化遺産に決定され、そのことを、NHKのニュース7のトップニュースとして、新婦の声で全国に伝えていただけることを心から祈念し、 3本で締めさせていただきます。それではお手を拝借。イヨ~オ!」
とっさのことでしたが、これはかなり受けました。
しかしこのとき、私も含めて、誰もこのことが本当に実現しようとは、夢にも思いませんでした。
なぜならば、この時点では、ユネスコの世界遺産会議は6月ということしか分かっておらず、新婦がニュース7を担当する日と重なるかどうかはまったく不明であり、 さらにトップニュースとなるには、時間的な新鮮さが必要であり、午後7時に近い段階での出来事でなければならなかったからです。
そして6月22日午後5時28分。
私がとっさに思いついた三本締めの口上のとおりに、すべての出来事が、まるでドラマのシナリオのように実現したのです。
富士山世界文化遺産登録にまつわるもう一つの感激のエピソードでした。
新年度がはじまりました
2013年4月1日
今日(4月1日)から平成25年度が始まりました。
8時30分から辞令交付式が行われ、新規職員一人ひとりに、市長から採用辞令が手渡されました。
やや緊張の面持ちで辞令を受け取る彼らを見ていると、40年前の自分の姿が重なります。
若者らしく、まなざしを高く、希望を大きく持ち、それぞれの職場でスキルを身につけて、富士宮市の未来を担う人材に成長することを心から期待します。
さて、富士宮市の課題は山積していますが、今年度は、何と言っても富士山世界文化遺産の登録に伴う施策が最重要課題となります。
構成資産である人穴富士講遺跡、山宮浅間神社、村山浅間神社、白糸の滝の整備はもちろんのこと、世界遺産登録となったことにより 予想される大勢の入込客への対応を整えておかなければなりません。
また、静岡県が建設する世界遺産センターの候補地に手を挙げ、浅間大社を中心とした富士山の歴史と文化を感じられる市街地整備をエネルギッシュ(市長の言葉では、バクシン!)に実行しなければなりません。
これは、富士宮市が 「富士山世界文化遺産のまち」 として生まれ変わる千載一隅のチャンスですが、 県との調整、用地交渉、事業認可、財源確保、関係団体・議会説明など多くの難関があり、「成し遂げよう」という強い意志がなければ実現はできません。
また、関係する部署も、企画部、都市整備部、産業振興部、教育委員会(世界遺産推進)財政部と幅広く、庁内の連携とチームワークが必要です。
副市長としての任期4年目となります。政策、企画、庁内調整の責任者として、リーダーシップを果たせるようがんばります。
30年後の自分へのメッセージ
2013年2月18日
富士宮市では、市制施行70周年記念事業の一つとして、30年後の自分や家族に宛てたタイムカプセルに入れるメッセージ(往復はがき)を募集しています。
このメッセージを収めたタイムカプセルは、30年後の市制施行100周年に開封され、はがきは、それぞれの宛名に返信されます。
私も、早速応募しようと往復はがきを購入しました。
しかし、いざペンを持つと、さまざまなことが頭をよぎり、考え込んでしまいました。
まず第一は宛先です。
私は今62歳。30年後は生きていれば92歳。日本の男性の平均寿命は79歳。
付き合いや晩酌を欠かすことなく、不摂生の限りを尽くしている私が30年後に生きている確立は低いといわざるを得ません。
仮に生きていたとしても、今の住所ではなく、どこかの福祉施設にお世話になっているかも・・・。
ならば、妻にしようか、それとも今年4月から同居予定の三女にしようか、などと迷いましたが、これからの自分の人生に張り合いが持てるように、 やはり私自身を宛先とすることにしました。ただし、その横に「ご家族様」を併記しておきましたが・・・。
宛先が自分と決まると、今の私から30年後の私へ、どんなメッセージを送ろうか、またまた考え込んでしまいました。
「お~い生きてるか。30年後も富士宮市はあるか。年金で暮らせているか。跡取りはいるか。孫は何人だ。築70年の家は建て替えたか。 地震、富士山噴火は大丈夫か。世界は平和か」などなど聞いてみたいことが次々と浮かんできます。
しかし、返信はがきは、限られたスペースしかないので、私の家族の幸せを願う気持ちと、3つの家訓?(30年間秘密です)をしたためました。
未来への想いを綴っていると、なんだか遺言書をかいているような、不思議な気持ちになりました。
この70周年記念タイムカプセルメッセージは、2月28日(当日消印有効)まで募集しています。
皆さんも応募してみませんか。(詳細は市のホームページにあります。)
AKB48永尾まりやさんと面談
2012年12月11日
12月11日、AKB48のメンバーである永尾まりやさんに、一日富士宮警察署長として、市内で交通安全や防犯の呼びかけをしていただきました。
アイドルですので、どこに行っても人気者で、特に富士宮西高では、生徒が教室の窓からから鈴なりで手を振ってくれたとのことでした。
一日署長の任務終了後、富士宮市役所を訪問され、市長が不在のため私がお会いしました。
正直に言うと、私は、AKB48のことをよく知りませんし、メンバーの誰が誰なのか区別もつきません。
しかし、はじめてお会いして、びっくり!永尾まりやさんの何とかわいいこと。
顔が小さく目がキラキラ。かわいいにもほどがある!
住まいは神奈川県で富士宮は2回目の訪問ですが、富士山が大きく、焼ソバがおいしくて感激したそうです。
スケジュールが詰まっていて短時間の面談でしたが、 受け答えがハキハキとしていて、愛くるしい笑顔は、とても好感が持てました。
富士宮警察署長、防犯協会副会長の区長会長も同席されましたが、それ以外にSPが3人もついて、VIP並みの警護体制でした。
彼女から、ニューアルバムのサイン入りCDをいただいたので、早速聞いてみます。(理解できるかな・・・・)
AKB48のセンター目指して、がんばれ永尾まりやさん!
新規採用職員研修講話
2012年10月29日
本年度の新規採用職員を対象とした研修において、副市長としての講話を行いました。
4月1日に市長から辞令を受けて6ヶ月。まだまだ1人前とはいえませんが、ようやく市役所の雰囲気に慣れてきたのではないかと思います。
そんな彼らには、いよいよ本格的に市職員として必要な知識やコミュニケーション・チームワーク等についてのノウハウを身に着けてもらわなければなりません。
先日、消防職員が暴力団がらみの恐喝未遂事件を起こしたばかりであり、私からは、改めて市職員としての基本中の基本の心構えについて話しをしました。
日本経済の低迷の中で、近年は公務員志向が高まっており、平成23年度の職員採用試験の倍率は、大卒一般事務職が14・8倍という狭き門でした。
その門を 通り抜けた人材を、いかにして富士宮市の将来を担いうる職員に育ていくかが、私たちに課せられた大きな任務といえます。 さて、限られた時間の中での講話ですので、今回は、3つのことに絞って、彼らに話しました。
一つ目は、職員採用試験を振り返って自分が採用されたことの重さを考えることです。
14倍の倍率で合格したということは、13人の夢敗れた受験者がいたということ。彼らの思いを背負い、市職員として成長しなければならないことを話しました。
二つ目は、「青」のストラップの名札(正規職員)への期待と責任です。
富士宮市役所は、市立病院をのぞいて約1000人の青の名札の正規職員と、約500人赤と黒の名札の臨時・嘱託職員が働いています。
その待遇には大きな格差がありますが、それは、職務内容と責任の重さからの違いであり、当然、市民は正規職員としてふさわしいレベルの対応を求めており、 それに応えられる能力を高めなければならないことを話しました。
三つ目は、新人職員として求められることです。
新人は、ともかく1にあいさつ2にあいさつ!市の職員となった自分を覚えてもらえるよう売り込むこと。そして市民からは24時間365日市の職員として見られており、 私生活においても親切、誠実に接すること。新人3年間は、最も自分を磨かなければならない時期であることなどを話しました。
昨年来、職員の不祥事が続いており、いささか上から目線の訓令調の講話となってしまいましたが、彼らの目の輝きから、きっと私の言葉が心に届いたとものと思っています。
~メガソーラーと富士山の景観~
2012年9月13日
富士宮市は、9月1日付けをもって「大規模な太陽光発電設備及び風力発電設備の設置に関する取扱い」を定めました。
その内容は、朝霧高原や富士山などの景観を守るため、市域の約3分の2を、メガソーラーなどの設置を「抑止」する地域と定めたものです。
原発に代わるクリーンエネルギーとして多くの自治体がメガソーラーの誘致に乗り出している中で、当市はこれと逆行する措置を打ち出したため、テレビや新聞で大きく取り上げられました。
この背景には、国が太陽光や風力など再生可能エネルギーの普及・拡大のため、固定価格買取制度を本年7月1日からスタートさせたことがあります。
この制度の創設により、メガソーラーなどで発電した電力は、国の定める価格で確実に売電できるため、新たなビジネスとして脚光を浴びており、広大な南向き斜面を有する富士宮市は適地が多いことなどから、既に20件近くの問い合わせがあります。
しかし、パネル面積が大規模なメガソーラーは、景観や植生に影響を与えるため、場所の選定には慎重であるべきですが、太陽光発電設備は法律上の建築物とみなされないため市の許可が不要であり、朝霧高原などの市街化調整区域にも設置できてしまいます。
さらに発電量によっては送電線や鉄塔が必要となるなど、このまま手をこまねいていれば、貴重な草原景観や富士山の眺望が阻害される恐れが大いにあります。
しかし、市にはこれを規制する法的な根拠や権限がないため、頭を抱えてしまいました。
ケンケンガクガクの議論の末、苦肉の策として「取扱い」という形で市の方針を示すこととなりました。
さて、その「取扱い」においても、「規制」という言葉が使えないため、何と表現すればよいのか悩んだ結果、「抑止」という表現にたどり着きました。国語的には「思いとどまらせる」という意味で、「核の抑止力」などが代表的な使われ方です。
ごたごたと経緯を書きましたが、要は、「富士宮市には世界文化遺産登録を目指している富士山があり、その景観はかけがえのないものなので、抑止地域においてはメガソーラーの設置は自粛してください。」というお願いです。
市議会からも「市の要請に従わなかった場合にどうするのか」といった意見もありましたが、今のところ、市の方針を理解していただき、「抑止(思いとどまっていただく)」効果が出ています。
それは、「世界文化遺産としてふさわしい富士山の景観を後の世に引き継ぐ責任がある」という富士宮市の強いメッセージが伝わったものと思っています。
法律のスキマをどのように埋めていくか、知恵のしぼりどころです。
渡辺 紀 元市長との思い出
2012年7月10日
渡辺紀 元市長が、去る7月1日にお亡くなりになりました。83歳でした。
渡辺元市長は、平成3年から平成15年までの3期12年間の長きにわたって市政の舵取りをされました。
その間、私は、企画振興係長、企画課長、企画部参事の職にあり、常に市長の政策スタッフの一員として一緒に仕事をさせていただきました。
渡辺元市長は、「和の政治」をスローガンに、争いごとを好まれず、誠心誠意ことにあたり、多くの偉業を成し遂げられました。
その手法は穏やかで、政策決定に当たっては、職員の意見をよく聞き、議会との合意のもとに丁寧に行われていたと思われがちですが、一方では驚くほどの決断力と強い意志をお持ちの政治家でした。
私が一番強烈に覚えているのが、オーミケンシ富士宮工場跡地(現在のイオンショッピングセンター)売買協議の「白紙撤回事件」です。
中心市街地にある広大なオーミケンシ跡地は、当初、富士宮市が買収する方向で会社側と協議が進められていました。当時は、バブル経済がはじけたとはいえ、地価はまだ高く、総額で95億円という数字が示され、会社側はこれで了解し、あとは契約書を取り交わすだけの状況でした。
しかし、渡辺元市長は、最終的な政策会議の席上、「市はこの買収のために巨額の借金をしなければならないが、これからは財政が厳しくなると予想されるので、きっと将来に禍根を残す。買収の方向で折衝してきたが、私が断ってくる。」と述べられ、大阪の御堂筋にあるオーミケンシ本社に出向き、私は随行者としてお供をしました。
本社では、関西財界の大物である夏川社長と娘婿の元大蔵官僚の龍寶(りゅうほう)専務が待ち受けていました。
渡辺市長が、売買協議の白紙撤回を申し入れると、夏川社長は、烈火のごとく怒り、「関西では口約束でも契約は成立だ。あんたは最低の市長だ」とののしりました。これに対し渡辺市長は「礼を尽くして大阪まで来たのに最低とはなんだ。市の将来を口約束なんかで決められない」と激しくやり返し、結局けんか別れとなりました。
その1年後、オーミケンシ富士宮工場跡地は、65億円で、政府関連機関の民間都市開発機構に売却され、イオングループがその土地を賃借するかたちで、ジャスコ富士宮ショッピングセンター(当時)が建設されました。
その後、渡辺元市長の予想通り、地方財政は危機を向かえ、夕張市をはじめ、多くの自治体の財政が破綻しました。富士宮市においても、小室市長の時代になって、職員の賃金カットを含む5年間の財政健全化計画を余儀なくされ、厳しい緊縮財政を経て、現在ようやく先行きの見通しがつくようになりました。
あのとき、もし95億円で買収していたら、間違いなく当市も財政危機に陥っていたでしょうし、イオンショッピングセンターと浅間大社を結ぶ新たな市街地の賑わいも生まれなかったことでしょう。
人情深く、お酒を愛し、釣りに興じ、穏やかなお人柄の中にも政治家としての強い意志も併せ持っておられた渡辺紀 元市長でした。
ご冥福をお祈りいたします。
副市長3年目を迎えました
早いもので、副市長の職も3年目を迎えました。
昨年の今頃は、東日本大震災に続く震度6強の地震などにより、今まで経験したことのない大混乱の年度明けでした。
あれから1年、いまだに福島第1原子力発電所の原子炉の制御はできず、東北地方のガレキの処理も進んでいませんが、日本人の英知と絆の力をもって、必ず復興は成し遂げられると信じます。
去る3月31日付けをもって、私と同期で市役所に採用された仲間の多くが退職しました。
ご苦労様でしたという気持ちの中に一抹の寂しさを感じます。
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」まさにそんな思いがこみ上げてきます。
さて、そんなセンチメンタルな気持ちに浸っている場合ではありません。
副市長の職務は、「市長の命を受けて、市の政策・企画をつかさどり、職員の担任する事務を監督すること(地方自治法167条)」とされており、その責任は重大です。
平成24年度は課題山積です。
富士山世界文化遺産登録を目指して白糸ノ滝をはじめとする構成資産の整備が待ったなし。
さらには仮称中央区公民館と地域交流センターの建設、ホテル誘致の具体化、療育支援センター・学校給食センター建設の準備、企業誘致、異常湧水対策、 増大する福祉施策、健全財政運営のための創意工夫などなど挙げればきりがありません。
これらの難関を突破できるかどうかは、富士宮市役所の「職員力」にかかっています。
新年度は、部長職も大幅に入れ替わりました。
新たに部長職に就いた皆さんには、市のブレーンとしての意識をもって、大いに活躍していただきたいと思います。
何はともあれ、平成24年度の幕開けです。心機一転、みんなでがんばりましょう!
小室市長ご苦労様でした
平成23年4月26日、小室直義富士宮市長の任期が満了します。
8年前、圧倒的な得票差をもって第18代富士宮市長として就任された小室市長の第1声は、「虚心坦懐」。
わだかまりなく、広く平らな心だ と心境を述べられました。
その言葉どおり、過去にとらわれることなく、市長は次々と、小室カラーの政策を打ち出されました。
危機管理、行政経営、人材育成、財政健全化、食育、ICTによる情報化、地域包括ケア、地域医療の確保などなど、今思えば、すべて時代を先取りした政策でありました。
市長就任当初、正直に言って、私たち職員は大いに戸惑いました。
なぜ戸惑ったかというと、私たちが、従来どおりの市役所の慣例の上に立っていたからだと思います。
もちろん、新しい政策には、痛みを伴うものもありました。
中でも、財政危機を乗り越えるために、市長自ら率先して行った5年間の給与カットはこたえました。
しかし、私たち職員は、このことにより、市民本位の、自主・自立の富士宮市を実現するためには、まず、市の職員から旧来の意識を変革しなければならないことを学びました。
そしてこれらの政策の断行により、5年後の今日、曲がりなりにも財政健全化への道筋がつき、芝川町との合併を成し遂げ、新富士宮市としてスタートすることができました。
これは、小室市長の、政治家としての鋭い時代感覚と強いリーダーシップによるものであることは、万人の認めるところだと思います。
また、市長ローカルマニフェストを掲げ、市民に約束事項を示し、その達成状況を明らかにしたのも小室市長が初めてです。
中でも、総合計画の最上位に「食」を置くことなど、誰も思ってもみなかったことであり、市長自らが考え、商標登録を行った「フードバレー」という言葉は、いまや全国の自治体が注目するところとなっています。
さらに、政治家としても全国に幅広い交流と人脈があり、「構想日本」のメンバーとして、時代の風を敏感に読み取り、常に新しい情報をつかみ、毎月の部課長会議の市長講話 において、私たち管理職員に、市長としての考えを熱く語られました。
このような、2期8年における多くの実績のもとに、当然、市長3期目を目指されると思っていたところ、「権腐10年」を理由に、昨年6月、早々と不出馬を表明されました。
副市長になったばかりの私にとっては、まさに晴天のへきれき、サプライズでした。
新たな市長は、間もなく選挙により決定しますが、小室市長が先鞭を切った、新しい地方自治の流れは、きっと引き継がれていくことと思います。
これからどのような道を進まれるのかは分かりませんが、小室市長のことですので、富士宮市の枠を飛び越えて、全国の有識者の方々とともに、新たな時代のオピニオンリーダー としてご活躍されることと思います。
小室市長、2期8年間、本当にご苦労様でした。
地震発生!本番の災害対策本部
3月11日の東北太平洋沖大地震に引き続いて、15日午後10時31分、富士宮市(富士山グリーンキャンプ場付近)を震源地とするマグニチュード6・4、震度6強の地震に襲われました。
割れたガラスで負傷された方や、瓦が割れるなどの被害が数多くありましたが、震度6強の地震としては、死者や家屋の倒壊などの深刻な被害がなかったことは幸いでした。
さて、このたびの地震による本番の災害対策本部を経験して、多くのことが今後の教訓となりました。
まず、地震発生が夜間でしたが、職員は、「災害時行動マニュアル」に従って行動し、災害対策本部の立ち上げや、管轄する施設の被災状況の確認などが迅速にできたことは、日ごろの訓練の成果といえます。
また、地域に密着して大きな力となった消防団、東電や都市ガス、プロパンガスなどのライフライン関連企業も災害対策本部と連携し、情報を共有しつつ、迅速な行動や応急対応が行われました。
課題としては、第1に、被災状況の正確な把握と、情報の効率的な処理です。地区担当班が被災状況を記入する用紙が、必要とされる被災分類と異なっていたため、報告状況を災害対策本部のホワイトボードに、ランダムに手書きするしかなく、被害件数等の確認に手間取りました。今後は、短時間でパソコンによる災害時情報共有システムが機能するような、被災区分と入力方法を改善する必要があります。
第2は、防災無線による広報の限界です。地域に設置してある防災無線スピーカーからの放送は、地形や風向きなどによっても聞き取りにくくなることがあります。
この点については、普段からも、たびたび市に苦情が寄せられますが、改善策として、ぜひとも各家庭で防災ラジオ(3800円の負担)を備えていただきたいと思います。
特に災害発生直後や停電時には、携帯電話や固定電話が使えず、テレビも映らないことから、正しい情報を得るためには、市の広報が極めて重要な情報伝達手段となります。今後市では、市の広報を聞ける防災ラジオを、希望者すべてに行き渡るように、必要数量を発注する計画です。
そのほか、自主防災会によって避難体制がまちまちであったこと、停電時における避難所の照明対策が必要なこと、一人住まいのお年寄りの安否確認のシステムをしっかり立てることなど、たくさんの課題が明らかになりました。
市では今、今回の災害対策本部の経験を通して明らかとなった課題や改善策について、全庁をあげてまとめています。
この教訓を生かしつつ、いずれ必ず来る東海大地震への備えを一層強めていかなければならないと思います。
水紀行・酒蔵めぐり(その2)
前回に引き続いて、水紀行・酒蔵めぐりです。2月6日、気の置けない地域の仲間と市街地から上野まで、湧水の川沿いを楽しみながら約10キロを歩きました。
上野地域の田園風景は、いつ来ても心が癒されます。牧野酒造と富士正酒造の2軒の蔵開きは、上野地域をあげてのイベントで、交差点には、安全確保や道案内のために、地域のボランティアの方々が立ち、にこやかに声を掛けてくれます。
私たち一行は、まずは牧野酒造に向かいました。こんもりとした木立に囲まれた煙突のある酒蔵が見えて来ると、あちらこちらの野道から、大勢の人の流れがそこに向かいます。
牧野酒造は創業が天保2年(1831年)だそうで、古い酒蔵からは、ほのかに酒の酵母の香りがします。
まだ10時過ぎだというのに、受付は大賑わいです。蔵開きというよりも、村の鎮守のお祭りといった感じで、鱒の塩焼き、静岡おでん、煮込み、焼き鳥などさまざまな露店の煙と香りが食欲をそそります。子供たちの太鼓や蔵の中での裏千家の野立茶席なども催され、さまざまな趣向を楽しむことができました。
まずは、無料のタル酒の試飲から。銘柄は「富士山」。新酒独特の荒々しく新鮮なキレ味と樽の香りのハーモニーが絶品でした。これが酒蔵でひっそりと夏を越すと丸みを帯びて風味を増し、秋口には「冷やおろし」として、また格別の味を楽しむことができます。
無料の試飲ばかりでは、すこしイジキタナク思われるので、有料のお酒も楽しみ、また地域の食材も、つまみとして堪能しました。
いつのまにか会場は、来客でいっぱいです。中には、市外、県外からの愛飲家も大勢来ていて、「富士宮はお酒も食べ物もおいしくていいところですね」と話しかけられ、この上なくうれしくなりました。
そんな状態がしばらく続き、いつしか酒好きの私たちのグループは、ひとつのテーブルを囲んで宴会状態となってしまいました。このままでは、次の酒蔵まで行けなくなりそうなので、後ろ髪を引かれる思いで腰をあげ、次の酒蔵に出発しました。
牧野酒造から富士正酒造までは、歩いて10分ほど。ほろ酔い気分で来る人、行く人が、狭い野道をすれ違いながら気軽に声を掛け合い、笑い声が響きました。
富士正酒造は、慶応2年(1866年)とのことで、建物は、今も上野の里の酒蔵としての風情を残し、周囲の景色にすっぽりと溶け込んでいます。
ここも、多くの人々で大賑わい。富士宮やきそば始め、おいしい地域の食材がいっぱい用意されていました。中には、コメ粉に鱒のすり身を練りこんで油で揚げた新製品もありました。
富士正酒造の看板商品は「千代の峯」。昔はこれ一本で勝負したそうですが、今は、嗜好にあわせて様々なお酒が造られており、私は、燗酒ならば男っぽい辛口の「げんこつ」のぬる燗が最高においしいと思っています。
さっそく、千代の峯の樽酒を試飲。牧野酒造とは又違った香りと味わいがあり、これまた、遠慮なく、試飲を何回も繰り返しました。
そんな折、たまたま会場で、富士フィルムの工場長さんと事務部長さんにお会いしました。お二人は、小倉と焼津のご出身で、日本酒の造詣がたいへん深く、以前、日本酒談義を交わしたことがありました。
お二人から、「富士宮市のお酒は本当においしい。また、「日本一の蔵開き」の企画はすばらしい」と、絶賛のお褒めの言葉をいただきました。
そこに、富士正酒造の社長が来て、テーブルに秘蔵の大吟醸酒を数本出していただき、さらに、日本酒談義、富士宮賑わい談義に花が咲き、日本酒党の私たちは、まさに、至福のときを過ごすことができました。
会場では、国会議員、県議会議員、市議会議員、区長会、観光協会はじめ多くの団体の役員の方々にもお会いし、新富士宮市の魅力と可能性についてのご意見を伺うことができました。
そう、こうしているうちに終了予定の14時となったため、私たちは、やや千鳥足で、迎えの車が待つ大石寺に向かいました。
ふりかえれば、この企画の中心となったNPOエネルギッシュクラブの皆さん始め、上野地域の大勢の皆さんのご協力により、大成功の蔵開きとなった一日でした。
次は、3月13日「日本一の蔵開き」の最後を飾る富士錦酒造です。旧芝川町時代には、例年1万人を超える人々が押し寄せました。さらに今年は、合併1周年記念という冠がついて、大変な賑わいとなりそうです。
富士宮市には、まだまだ活かせる資源がたくさんあります。まずは、市民自らによる再発見、「市民観光」から始めてみませんか。
水紀行・酒蔵めぐり(その1)
今月の部課長会の席上で、若手職員による「新富士宮市の観光戦略~感動をあなたに~」というテーマの市政制課題研究の発表がありました。
その中で、「市外からの観光客の誘致だけでなく、市民がもっと市内の優れた観光資源を知り、郷土愛を向上させよう」という提案がなされました。
そんなおり、「酒蔵のまちふじのみや日本一の蔵開き」と銘うった新しい企画の一環として、2月6日に上野地区にある牧野酒造と富士正酒造の蔵開きが行われました。
市内の造り酒屋は、芝川町との合併により4軒。ネットワークにより新たな観光資源として期待されています。
いうまでもなく、富士宮のおいしい地酒は、富士の恵みの賜物であり、私の住む市街地でも、淀師地区を水源とする横溝川(渋沢用水)の清冽な流れを見ることができます。
そこで、昨年に引き続いて、地域の愛飲家(酒好き)の仲間10人とともに、湧水の流れをさかのぼりながら、上野まで歩く「水紀行・酒蔵めぐり」を実施しました。
当日は、お天気にも恵まれ、地元若の宮町の信用金庫本店南側の横溝川沿いから出発しました。人ひとりがやっと取れる川沿いの細い遊歩道を行くと、水路は萬松院裏手からひっそりとした人家の間を抜けて、富士浅間神社の横を通り、浅間大社からの坂道の登山道に突き当たります。
この区間は、表通りとはまったく異なる静けさと川面にしだれかかる木々の景色をから、旧大宮町時代にタイムスリップしたような風情を感じることができます。
登山道からは、よく手入れされた浅間大社の森の中を大きく曲がり、二ノ宮石材から開けた住宅地にそって旧国道139号に向かいます。同行した仲間からは、「こんな川沿いの道があるなんて知らなかった。いいね~。」と感嘆の声が上がりました。
渋沢用水は、福知神社沿いに進み、筋交い橋をくぐって住宅地を抜けて行きますが、曲がりくねった道沿いに人家が連なっており、この道が昔からの道であることが分かります。
富士フィルムに向かう阿幸地青見線を横切って北上すると、住宅地を抜けて田んぼの風景が開けます。川は、広く、水量が増し、養鱒場の池が見えてきます。
少し前までは、もっとたくさんの養鱒場がありましたが、今は一部が埋め立てられて、新興住宅地となっています。
この地域は、昨年秋に地下水位が上がり、市は、一時、異常湧水警戒本部を設置しました。渇水で困っている他市から見れば、水に恵まれている富士宮市の贅沢な悩みといれるかもしれません。
川の流れは、富丘小学校下側の養鱒場で、突然途切れます。この湧水地(ポンプアップ)が、横溝側(渋沢用水)の起点です。周辺には、せりが自生し、水の豊かさを物語っています。
さて、私たち一行は、富丘から青木に入り潤井川沿いの道を馬見塚に向かいます。
ここからは、富士山を一望のもとに仰ぐことができます。のどかな田園風景を楽しみながら、北上すると、和風の趣のある家が目にとまりました。このお宅は、市役所にもすばらしい作品を寄贈していただいている市場良子先生の染色工房でした。
ここから上野の幼稚園に向けての道は、きつい上り坂です。みんなの口数も少なくなってきて、正月の箱根駅伝で、箱根の上り坂を走るランナーの気分でした。
坂を上りきって、上野の妙蓮寺の駐車場に着くと、大勢の地域の方々が、駐車場整理や会場案内のボランティアをされていました。中には市議会議員の方もおり、おもてなしの心がとてもうれしく感じられました。
ここまで、休みなく歩いて1時間40分の行程でしたが、心地よい疲労感とのどの渇きを覚えました。普段は、車でなにげなく通過している道も、ゆっくり歩いてみると、たくさんの発見や感動があり、富士宮市の歴史、文化、観光資源の幅の広さを感じました。
ここから私たち一行は、いよいよ本日のメインイベントである上野地区の2件の酒蔵を目指しました。
(コラムとしては長くなってしまったので、後編は次回にアップします)
「園児も心配?ガッペ、ガッペ」
今年もあっという間に師走となりました。
4月に副市長に就任して以来、無我夢中の毎日でした。おかげ様で大過なく・・・と言いたいところですが、大過も小過もあって、たくさんの懸案事項を抱えての年越しとなりそうです。
さて、市の職員が選んだ富士宮市の10大ニュースが先日発表されました。
1位は、圧倒的多数で芝川町との合併。2位は日本ジャンボリーの開催。3位はイオンシネマコンプレックス誕生。以下、かみつきサル出没、小室市長次期不出馬宣言(私にとっては1位です!)と続きます。
芝川町との合併は、富士宮市の歴史に残る大きな出来事でした。特に、芝川地域にお住まいの皆さんにとっては、慣れ親しんできた「芝川町」という名前がなくなることは、さまざまな意味で感慨深いものと思われます。
昨日(12月15日)、芝富北保育園のクリスマス交通安全教室に出かけました。(その様子は、「副市長の1日」でアップしてありますのでご覧ください。)
かわいい園児たちの前で私がお話をする前に、園長先生が私を次のように紹介されました。
「みなさ~ん、芦澤副市長さんは、富士宮市と芝川町の合併を進めるお仕事をされました。皆さんのおうちでも去年の今頃、お父さん、お母さんがガッペ、ガッペのお話をしていたこと覚えていますか?」(園児たち大きな声で)「ハーイ、おぼえていま~す。」
「ガッペ、ガッペで、ぼくのおうちなくなっちゃうの?って心配したおともだちもいたね。」(園児たちうなずく。)
これには、参りました。家庭で、「合併で芝川町がなくなる」という会話をたびたび聞いて、子供心に「芝川町がなくなれば、おうちもなくなる。どうしよう。」と心配したのでしょう。
合併しても園児たちの家はなくなりませんが、芝富北保育園は、芝富南保育園とともに来年3月に閉園し、4月からは民間の認定こども園(現在建設中)に移行します。
ガッペ、ガッペで芝川町はなくなりましたが、子供たちが生まれ育ったふるさとの思い出や、芝川地域の自然、文化、景観など、かけがえのない資源や資産が失われることのないように、新富士宮市の一部として、しっかりと引き継いでいかなければならないと、改めて強く感じました。
副市長講話に対する感想
先月のコラムは、新規採用職員研修で行った副市長講話について書きました。
コラムの最後には、「いささか、私の思い入れが強すぎて、空回りした感も否めない講話となってしまいました。」と書いてあるとおり、新規職員に、私の話がどのくらい受け入れられたのか気にはなっていました。
その後、市議会も始まり、すっかりそのことを忘れていましたが、先日、新規職員の研修レポートが人事課から届けられました。
その内容は、3日間の研修に対する感想と、「今後の自分に対する約束」が書かれていましたが、その中の1項目に「副市長講話の感想」がありました。
副市長となって、人前でスピーチや講話を行う機会も増えてきましたが、終えれば「やれやれ」で、正直に言って、その評価を聞きたいと思ったことはありませんでした。
自分の講話がどのような評価を受けたのか知ることは、この歳になってもドキドキするものです。
早速目を通してみたところ、私が伝えたいと思っていたことが、100パーセント素直に受け入れられていたことに、大変驚きました。
先月行った講話の要点は二つ。一つ目は、名札の青色(正規職員)のストラップを付けることの責任の重さを自覚すること。二つ目は、近未来における富士市との合併を念頭に、富士宮市職員としての力量を高めることの2点でした。
レポートにあった感想のいくつかを抜粋します。
・昨年の採用試験を受けた時の「市職員になりたい」という気持ちが思い出され、青い紐の名札を付けるこ との緊張感を感じました。
・5年後、10年後を見据えた富士宮市を考えた行動をしていく、それが「青」に求められることなのだと感じま した。
・「採用試験で、自分が合格したが為に同じ試験を受けた多くの人の夢が破れた。ここにいる者は、採用さ れなかった者たちに、道を託されたと思うべきだ」との副市長のお言葉が一番心に残りました。
・この半年間、市長の名前を使い庶務をこなしてきましたが、講話を拝聴して青いストラップの責任に気付き ました。
・「8時30分~17時15分までの経験の繰り返しだけではいけない、その経験を元にスキルアップすること」と いう言葉がとても印象的でした。
・10年後には、富士市との合併により、まったく新しい市ができていると考えると期待に胸が膨らむ思いだ。 新設合併とのことなので、対等の立場でゼロからのまちづくりという大仕事を盛り上げるよう、スキルを身 に付けておきたい。
・芝川との合併はまだ第1段階だと聞いて、これから先10年でいったいどれくらい状況が変わるのだろうかと 少し不安を感じました。今から、「富士市の職員に負けないように」という激励にこたえられるよう努力した いと思います。
・富士市との対等合併にふさわしい職員力を身につけること、恐るべき職員集団と思われるように自分を磨 くことが、10年先を見据えた行動であると感じました。
・富士市との広域行政に先駆けて、私たち消防が平成24年度に富士市と一元化しますのでそれに向けて の心の準備をしっかりとし、富士市の職員に負けない力をつけておくように日々仕事をしていきます。
このような感想を読むと、「講話」をすることの責任の重さを深く感じます。10年後に富士市と合併しているかどうかは、現段階ではまったく未定ですが、私の話により、新規職員をかなり臨戦態勢にしてしまったように思えます。
これは、講話が1時間という限られた時間であるため、あえてインパクトのある表現を意識したためですが、私自身、話しているうちにだんだん熱が入って、最後は「講話」が「アジ(扇動)演説」調になってしまったようにも思えます。(実は、私は若いころに、職員組合の委員長の経験がありまして・・・・・)
10年後に、富士宮市がどのような形となっているかは分かりませんが、いずれにせよ、本年度の新規採用職員が、行政の中堅職員として活躍している時代となることはまちがいありません。 「鉄は熱いうちに打て」のことわざのとおり、人材育成の大切さを改めて感じました。
人材育成・新規採用職員研修(平成22年10月20日)
本年度の新規採用職員研修において、副市長としての講話を行いました。
日本経済の低迷の中で、近年は公務員志向が高まっており、昨年の職員採用試験の倍率は、一般事務職が10倍、保育士が12倍、司書に至っては50倍という狭き門でした。 その門を通り抜けた人材を、いかにして富士宮市の将来を担いうる職員に育てていくかが、私たちに課せられた大きな任務といえます。
さて、限られた時間の中での講話ですので、今回は、2つのことに絞って話をしました。
一つ目は、市の「正規職員」としての自覚についてです。
話が抽象的にならないように、ホワイトボードに、「青・赤・黒」という字を色別のマーカーで書いて、これが何を意味しているのかを尋ねましたが、分かった職員は数人でした。
青は正規職員、赤は臨時職員、黒は嘱託職員の名札の紐の色です。
市民からも、同じ職場で働く臨時職員や嘱託職員からも、いつも名札の紐の色を見られており、「青」を掛けることの責任の重さと求められる仕事の質について、しっかりと自覚するように訓示しました。
二つ目は、近未来の富士宮市についてです。
富士市と富士川町との合併、富士宮市と芝川町との合併は、静岡県の合併構想では第1ラウンドにすぎず、いずれ第2ラウンドに向けた動きが想定されること。そのときの新しいまちのイメージは、人口40万人、駿河湾から富士山頂までの市域、東名・新東名・新幹線の大動脈、浜松に次ぐ県下第2の工業製品出荷額、世界遺産である富士山の自然と歴史・文化を有する潤いと活力のある県東部一の中核都市となる可能性について、具体的な数字を示しながら夢のある話をしました。
そして講話の最後に、「あなたたちが退職する時には、間違いなく、今の富士宮市はない。そのこと念頭に、専門知識を身につけ、時代感覚と市民目線でものを考えられる職員になってほしい」と訴えました。
いささか、私の思い入れが強すぎて、空回りした感も否めない講話となってしまいましたが、これからの彼らの成長を心から期待したいと思います。
「近自然学」講演とコンサート(平成22年9月30日)
9月26日の日曜日「森と響きあう」という講演会とコンサートを、安藤記念ホールで聴きました。
主催したのは、青木平にお住まいの長澤さんを中心とする市民グループのみなさんで、富士宮市などが後援しました。
長澤さんとは、15年前、当時私が企画課の職員であったとき、青木平の電源開発送電鉄塔の建替え計画について説明に伺った際に、自然景観とエネルギー政策について、「激論」を交えたのがきっかけとなって知り合いました。
以後、長澤さんには、青木平の里山づくりや自然環境についてのコミュニティー活動に、大きな力を発揮していただいています。
今回は、弦楽アンサンブルコンサートと講演会を織り交ぜたユニークな企画で、演奏は、スイスを拠点として活躍されているバイオリニスの河村典子さんを中心とするプロの弦楽グループの方々、そして講演は、同じくスイスで近自然学を研究しておられる山脇正俊さんでした。
河村さんは、音楽家であるとともに自然への造詣が深く、富士宮市がすっかり気に入って、近々富士宮市民となる予定だそうです。
私は、今年の6月、京都の古刹、東福寺で行われた河村さんのコンサートに出かけ、そのバイオリンの音色にすっかり魅せられました。
今回の弦楽アンサンブルもすばらしい演奏で、特に、おなじみの、ドボルザーグの交響曲新世界第2楽章の「家路」は、心に染み入る美しい音色でした。
引き続き行われた山脇さんの「近自然学」の講演は、市の政策立案の上でも大変勉強になり、早速その本を購入しました。
山脇さんによれば「近自然学」とは、私たちの生活の豊かさと自然環境とを両立させることであり、「住みよいまち」とは、人々が五感で気持ちよいと感じられるまち、とのことでした。
スライドで具体的に、里山や、小川、せせらぎ、光が差し込む森などのここち良さを組み入れたスイスやドイツの河川、道路、町並みなどが示されましたが、ビジュアルで分かりやすく、なるほどとうなずけるものでした。
日本においては、個々の財産権や、経費や管理の効率性を優先した都市計画がまだ主流ですが、近年は、景観や自然環境に配慮した計画も増えてきたように思われます。
できること、できないことはありますが、私たち市の職員も「近自然学」という考え方を理解して、政策立案に取り組むことが大切であると思いました。
音楽で心が洗われ、自然との共生について学ぶことのできた実り多い初秋の一日でした。
「確率と統計から思うこと」(平成22年8月30日)
国政選挙や大きな地方選挙において、報道機関による出口調査がすっかり定着しています。投票を済ませた有権者からの聞き取りは、若干の偏りはあるものの、一定のサンプル数があれば、ほぼ開票結果と一致し、極端な場合は、開票と同時に「当選確実」のテロップがテレビに流れます。これは確率の分野です。
毎年「富士宮市の統計」が冊子となって公表されています。これにより、富士宮市の変化を数字で知ることができます。
その中で、交通事故の負傷者の数を、この5年間見ると、最高が平成16年の1,640人、最低が平成19年の1,594人でした。
市の人口を13万人とすれば、交通事故で負傷する確率は、毎年0.0122~0.0126の範囲にあり、ほとんど誤差がありません。
今後、劇的な社会情勢の変化がない限り、毎年市民100人に1人が交通事故で怪我をすることが、ほぼ確実に予想されます。これは統計の分野です。(もっとも、市と警察とで交通事故撲滅運動を継続しているので、この程度の確率に収まっているというべきかも知れません。)
さて、私も今年60歳になりました。先日、久しぶりの高校のクラス会があり、懐かしい旧友と楽しいひと時を過ごしました。
開会に先立って、物故者の黙祷が行われましたが、同窓生462人のうち24人(5.1パーセント)がすでに亡くなっていました。聞いたところによれば、還暦時のクラス会では、ほぼ5パーセントが物故者だそうで、私の学年が特に多いというわけではないようです。
確率と統計というと、一見無味乾燥な数字の世界に思えますが、私たちの社会生活や産業の変化・不変化、さらには火災、事故等のリスクについて、如実に物語っています。
還暦まで、健康に生きられたことは、本当に幸福です。確率と統計からみれば、社会的、生物学的なリスクをゼロにすることは不可能です。不幸にしてどなたかにそのリスクを背負っていただいたので、今の私が存在できていると思っています。
「職員採用試験」(平成22年7月27日)
富士宮市の職員採用試験(第1次)が7月25日に行われました。
試験会場は一中を使用しましたが、クーラーはありません。朝から気温はうなぎ昇りで、中にはスーツにネクタイ姿の受験生もおり、みなさん、汗だくで試験問題に取り組んでいました。
今年の倍率は、一般事務については、申し込み段階で40倍。例年なら実際の受験者はかなり減りますが、今年は予想外で84%の方が受験し、1次試験の倍率は、「34倍」という過去に例のない高い競争率となりました。
これは、有効求人倍率が0.5という就職難の中で、公務員志向が高まったためと思われ、中には東北や九州からの受験者もいました。
実は、試験は受付の段階からすでに始まっています。服装や態度、髪型など、市職員としてふさわしくない者がいないか、試験委員は、厳しい目でチェックしました。
第1次は学科試験で、職種、学歴等により内容は異なりますが、これらはすべて公務員試験の専門機関で作成されたもので、解答用紙は厳重に密封し、専門機関で採点されます。
1次試験合格者は、2次試験(論文、適性、面接)に臨みますが、面接は、市の試験委員と市民面接委員により2回実施され、公正・公平かつ、広い視野から採点が行われます。
「組織は人なり」といわれますが、市民に信頼され、将来の富士宮市役所を担うにふさわしい人材を選ぶことは大変重要であり、私たち試験委員の責任は重大です。
もちろん、受験生の皆さんも必死ですが、私たち試験委員も真剣勝負で臨んでいます。
今年はどんな若者が「34倍」の倍率を突破してくるのでしょうか。市の未来を託すことのできる優れた人材が確保できることを期待しています。
「新井満作詞作曲 富士山」(5分間スピーチにて~平成22年5月7日)
今日は、私が最近口ずさむようになった、歌についてお話します。その歌は、新井満さんの作詞作曲の「富士山」という歌です。新井満さんについては、「千の風になって」の訳詩、作曲者として有名ですから、みなさんご存知のことと思います。その新井満さんが、「富士山」を作詞するときに、日本一の富士山をたたえるのではなく、反対に、一生懸命生きている人を富士山にほめてもらおう、という方針に変えたそうです。
今日は、みなさんにその歌詞をお配りしました。この歌は、富士山学習PART2のテーマソングとなっていて、富士宮市の中学生はみんな知っています。
まず1番です。
桜の花が咲いている 旅立ちのとき 胸熱く
はるかな空に 虹かける 仰げばそこに富士の山
誰にも経験がある卒業式、新たな出発のとき、あるいは、新しいことに取り組むとき、これからどんなことが待ち受けているのか、不安の中にもわくわくする気持ちです。私は、1番の歌詞に「希望」というテーマをつけてみました。
次に2番です。
逆巻く波が打ち寄せる まっすぐな道 曲がり道
傷つくたびに 泣くたびに 元気出せよと富士の山
物事はうまくいくときばかりではありません。むしろ失敗したり、悔やんだりの連続です。そんなとき、富士山はそっと励ましてくれます。2番のテーマを「試練」としてみました。
次に3番です。
夕焼雲が燃えている ふるさとの山 光る河
父 母 おさな友達の 歌が聞こえる 富士の山
人には、誰にもふるさとがあります。年月がたてばたつほど、過ぎ去った日々が懐かしく思われます。3番のテーマは、「思い出」としてみました。
そして4番です。
白雪しんと降りしきる さまざまなこと思い出す
「よくやったね」と微笑んで 春を夢見る富士の山
「よくやったね」と微笑んで 春を夢見る富士の山
一生懸命生きてきて、今振り返ると、楽しいことも、つらいこともいろいろあったけれど、自分としては、精一杯がんばったんだという満足感。そしてそのことを富士山にほめてもらえたうれしさ。4番のテーマは、成し遂げたんだ、という気持ちを表して、「達成」としてみました。
もちろんこの歌は、詩だけでなく曲もとても親しみやすく、また心に伝わってきます。それは、新井満さんの「千の風になって」という曲と同じように、その歌に、自分の経験や生き方を重ねることができるからだと思います。
私は、毎朝、愛犬と散歩することが日課となっています。その途中、場所は富士宮医院の南側ですが、広い畑越しに富士山が大きく見える市街地では最高のビューポイントがあります。ここを通るとき、その日その日時々の自分の心境に合わせて、富士山の1番から4番までのいずれかを口ずさむようにしています。
たとえば、「昨日の議会での答弁は大失敗だったな。これから試練が続くな」と落ち込んでいるときは、2番を歌いながら、富士山を見上げます。すると「傷つくたびに、泣くたびに、元気出せよと富士の山」と励まされて、ほんとうに元気がわいてくる気がします。
また、去る3月23日の芝川町との合併記念式典では、市民文化会館大ホールで、舞台いっぱいの中学生が、この富士山を大合唱し、多くの方々に深い感銘を与えました。このとき、私は、合併担当の企画部長でした。「本当にいろいろなことがあったけれど、1年という短期間で合併を成し遂げたんだ」という達成感がひしひしと胸にせまり、4番の「よくやったねと微笑んで、春を夢見る 富士の山」の繰り返しのフレーズを口ずさみながら、熱いものがこみ上げてきました。
1番の「希望」、2番の「試練」 3番の「思い出」、4番の「達成」、皆さんの今日の心境は何番でしょうか。2番の「試練」が多いかもしれませんね。これだな、とおもうものをぜひ口ずさんでみてください。
なお、今日私は歌いませんでしたが、曲は、インターネットで「新井満」で検索し、「YouTube富士山」をクリックすれば聞くことができます。皆さんぜひ、この曲を覚えてください。きっと心が豊かになると思います。
「無我夢中」(平成22年4月26日)
4月1日に、第2代富士宮市副市長を拝命してから、早1ヶ月が過ぎようとしています。 就任のあいさつ回りやら何やらで、名刺を300枚近く使用しました。始めは、お名前とお顔を一生懸命覚えようとしましたが、正直言って一回では覚え切れません。これは相手の方にとっても同じことだと思います。何回かお会いするうちに、おのずとお互いに分かることだと割り切ることにしました。
4月は、多くの団体で総会が行われ、市長の日程の都合がつかない場合は、私が出席して祝辞を述べました。祝辞の原稿は、あらかじめ担当課で作成し、事前に目を通してありますが、多くの場合、内容が硬いため、その場の様子でアドリブを入れる場合もあります。また、祝辞を述べる来賓が多い場合は、簡略化することもしばしばあります。気をつけていることは、(1)原稿を棒読みしない (2)(2)会場の隅々を見渡しながら (3)歯切れよく抑揚をつけて (4)その団体の具体的な賞賛点を (5)時間は2分~3分で と心がけています。
さて、副市長の本業は、庁内の企画、政策の取りまとめです。3月末日までは、企画部長の職でしたので、各部長とは、率直に話し合える間柄です。早速、さまざまな相談がありましたが、しっかりと理論立てて、大局的な視点をもって方針を出すことが大切だと思っています。
無我夢中の一ヶ月でした。5月には、芝川地区選出の市議会議員も加わって、臨時会もあります。緊張感の中にも、新緑の季節ですので、さわやかな気持ちをもって臨みたいと思います。
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